ディーン(仮)のブログ

大学時代の思い出を書きなぐっています

教育

3年ほど塾で働き、自分なりに教育について考えたこと、こうしていくべきではないかと思ったことをまとめておく。

 

1.教育の個別最適化

現在働いている塾も含め、多くの塾は収支の関係上 集団、グループ形式のスタイルをとっている。自立して勉強できる生徒にはそれでまったく問題ない(むしろ、ライバルがいることで切磋琢磨できる利点がある)が、

自立して学習できる学習姿勢や理解力がない生徒にとってはかなり効率の悪い学習スタイルである。(グループの中でも個別で進度を変えるなどの工夫があればよい。)

 

2.教育の学際化

分類わけ、系統分け(各科目にわける)することにより効率化して学ぶことができるが

そういったことが逆に生徒の探求心、知的好奇心を妨げている可能性がある。
ただ、現行の学習スタイルや学校、時間や科目、内容によって効率よく集金する塾のような営利組織では境目なく学習させることは難しい。
また、さまざまな学問を学際的に教えることができる人材の養成が必要になる。

 

3.生きた学問、実用化可能な学習内容

現在の学習内容はあまり実生活で使わないようなものが多い。
受験勉強などは考え方、特に論理的思考力、記憶力を鍛えるうえで重要になることが多いが学習内容は実生活で使わないものばかりである。
記憶力を鍛えるという意味では、より実生活で生きていくうえで必要な知識、

法律や社会の仕組み、マネタイズ、ビジネスにおける話し方、セールスライティングなどより実用的な知識を教えたほうが有効的であると考えられる。

英語の教育ではセンター試験でスピーキングが導入されるなど改革が進んでいるとのことだが、その他の科目で抜本的な改革にいたらないのは変革に対する抵抗や惰性で

進めている部分が多いからだと思う。

だが、IT社会かつ国際化が進んでいる変化の大きい現代社会ではスピーディーに教育改革を進めていかないと教育内容と社会での乖離がより一層進んでしまうと考えられる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

情報と投資 モテるものとモたざるものの格差

この1カ月ははたから見ればあほみたいな1カ月だったと思う。

 

でも僕にとっては貴重な1か月だった。

 

この1カ月で僕が学んだことは2つ。

 

一つは結局、人間は行動から学ぶ生き物であるということ。

二つ目は情報は、僕が思っている以上に素晴らしい効力を発揮するものであり、

人や使い方によっては提示額以上の価値を生み出すものであるということだ。

 

この一カ月、僕はナンパにいそしんでいた。

僕がナンパにいそしむようになったのは、以前noteでも書いたが、

ある女性を家に連れ込んだことがきっかけだった。

 

そして、女性を家に連れ込むことができたのはまぎれもなくlineがきっかけだった。

(どのようにラインしたかは長くなるので省く)

 

おそらく運もあっただろうが、初対面の女性がどうすればご飯に行き、家まで来てくれるようになるかといういわゆる情報は僕がnoteで3万円で購入したものだ。

数を重ねればもしかするとできるようになったかもしれないが、この情報を得たことにより、時間を買うことができた。これがいわゆる情報への投資の概念だとおぼろげながら理解することができた。

 

そして、それが自信につながり、女性への声掛けは苦にならなくなりその後もラインを交換した女性とデートや、直家にまで発展するようになった。

 

これが、僕自身が情報の効力を理解した瞬間である。

 

道ですれちがってかわいいと感じた女の子に対し、声をかけずに悶々とする無駄な苦悩はなくなった。そしてその時間をどうやったら口説き、番号を交換し、家まで連れ込むかという思考に割くことができるようになった。

 

そして、これはナンパだけではなく、あらゆる情報ビジネスに通じることなのだとnoteを購入したことから理解することができた。

 

要するに、モテる男がモテる情報(ファッション、コミュニケーションスキル等)を

理解しているのと同様、

情報ビジネスで金持ちになった人間は金を稼ぐための情報を有している。

貧乏人はそのこと自体を理解できない、もしくは提示額以上の価値を見出せない、

もしくはそもそも金自体が少なく、BETできない可能性が高い。

 

金持ちは豊富な財源ゆえに大量にBETでき、ゆえにいつしか金脈を掘り当てることができる。

そして、情報が最大の武器だということを知っている。

 

貧乏人と金持ちの差は一次産業で働いているか三次産業で働いているかレベルの

格差で、そもそも何を売るかだけでなく、どうやってお金を生み出すかという視点がまるで違う。

このあたりは本を読んで理解していたが、実際に行動してみて初めて

腹におちて納得することができた。

 

そして、僕は情報を得て、情報を加工し、情報を売る人になろうという目標をつくることができた。

いままではただ単に学問を教えるということだけだったが、

希少性の高い情報にこそお金が集まるということに気づいた。

 

そして、希少性の高い情報というのはいわゆる情報が閉鎖されたコミュニティで希少性

の高い行動をすることに他ならない。

 

もちろん情報を売るためのコピーライティングや本質的な営業力はとても大切なものになる。

それを手にするのは本当に至難の業だろう。かなりの資金や時間を投下しないといけないだろう。

でも僕は単純にお金を稼ぎたいということよりも、人間の心理、根源的な欲求にめちゃくちゃ興味がある。それをビジネスを通じて垣間見ることができる。

こんなに面白いことはない。僕にとって学問の100倍面白い。

 

営業は相手の根源的な欲求を把握し、相手の心理状況を理解しながら適切な声掛けをしていくことで価値のあるものを提供していく行為である。

ナンパと近いものがある。

どういう声掛けが目の前の相手に響くのか。

そのためには目の前の人が何に興味があり、何を欲しているのかを見極めなければならない。

それがわかれば適切な声掛けの仕方もわかってくる。

 

そして、日常生活において、自分の信念を通し、周りに協力してもらうためには

営業力において重要な説得力がめちゃくちゃ大事なのだといろんなnoteや営業で成り上がった人の映画や書物をみていくうちにわかった。

そのためには自分の核をつくらないといけない。自分がどういう人間で何をなしえたくて、そのために今何をするべきなのか。そのためにこれが必要だということ。

根底がなければ情熱が伝わらない。そんなのでは負けてしまう。

ただ、核を持っているだけではだめで、相手によって伝え方というチャネルを変える、

これが営業力、なのだと思う。

 

今はネット全盛期だ。

多くの人がスマホ、ネットから情報を得ている。

多くの人が見る媒体に資本が投下されるし、投下されるべきなのだ。

 

僕たちはネット社会でネットワークの扱い方を理解し、情報を武器にうまく戦っていかなければならない。

 

 

 

 

マイケルから教わった大事なこと

僕はゲームに参加してしまったんだ、、
そう思った

この資本主義の果てしないお金の取り合いゲームに

 

「会社に属するということはつまりそういうことなんだよ」


マイケルは澄んだ瞳で云った


「会社に属するということは社会に属するということ
社会に属するということは
お金をとる、とられる世界に属するということ」

 

「大体の人間はそれを常識として生きていく
お金の存在自体を素直に受け入れていくし、お金を稼ぐために時間を割くことを厭わない。
お金=時間、ひいてはお金>時間と思ってしまう人間だっている」

 

でもね、マイケルは云った


「本当に大切なことはお金と時間を別の次元に移動させることなんだ」

 

「お金と時間っていうのは関係性を同じ次元で扱えるものではない
本当はお金っていうのは時間を豊かに過ごすツールにすぎないんだ

 

だから本当の意味で裕福な人間というのはね、
時間を度外視して、商品や自分の能力に磨きをかけている(人によっては好きなことを追求するという)人なんだよ

 

だって考えてごらんよ、ビル・ゲイツやスティージョブズが「定時だから帰りまーす、今日はお先に失礼します」なんていうと思うかい??
彼らは時間を忘れて死に物狂いで仕事をしている 」

 

マイケルのいうことはなんとなく理解できた。

でもそんなの一部の恵まれた人間だけじゃないか、、

 

「こんなエピソードがある。
島田紳助って知ってるかい?
彼は日本のコメディアンなんだけど、
名もない若手芸人に向けてのスピーチの中で、
彼らに1つだけ負けてるものがあるっていったんだ。
なんだか分かるかい?」

 

僕は首をかしげた。


「分からない」

 

 

 

 

 

「それはね、若さ だよ」

 

 

 

 

 

「年を取った人間は若さを買えるなら一億円だってはらう。
だから若いということはポケットに一億円あるのと同じことなんやで。」

 

 

 

「これが島田紳助が云った言葉なんだ」

 

マイケルは云った

 

「つまり、僕が言いたいのはね、

お金は人や時代によって価値が変動する、流動的なもので、

いま生きているこの時間はみんなに平等に与えられるもので、みんな等しく消え去ってしまう、いわば限定的なものなんだ。

だからお金と時間を同じ次元で扱うなんて考えは捨て去った方がいいんだよ」

 

 

僕は日々自分がなんてせまい常識にとらわれていたのだろうと思った

 

同時に人の暮らしをより豊かに便利にするために開発された「お金」というツールが

それを扱う人によって逆に人生を不自由で

つまらないものにしてるのかもしれないと思った

 

 

                                                   続く

 

 

 

 

 

ついに上司にぶちぎれてしまった(中途入社一か月目)

やってしまった、やってしまったよ、ついに

 

ついにあのふぁっ〇きゅー上司(ここからジャイアンの頭文字をとってJ)に入社1か月目でぶちぎれてしまった。

 

やっちゃったよ、本当に

 

まあやっちゃったもんは仕方ないよね。

 

 

 

でも僕の心の中は爽快感より罪悪感がすごかった。

 

というのもぶちぎれた案件が理不尽とはいえないレベルだったからだ。

 

 

事の発端を説明しよう。

 

私の塾は生徒がきたらこんにちはーとあいさつをするのが

日課で(といっても教室によってまちまちなのだが)

入って日が経ってない私はなおさら率先して挨拶を

しなければならなかった。

 

以前より挨拶も明るくなり、割と笑顔で生徒と接することができ、

生徒も割と笑顔で挨拶してくれるようになったと思っていた。

 

めんどくさいとは少し感じながらも生徒と接するいい機会だと思い、

自分は挨拶に励んでいた。

 

そんな時、精一杯、挨拶をするおれにJがこう言い放った。

「そこ暗いから、もっと明るいところであいさつしな」

 

まあ、これだけならわかる。はいはい、やりますよって感じだ。

 

しかしだ、次の言葉が許せなかった。

「ジ〇ン(外国人)の先生を見習いな。彼、めちゃくちゃフレンドリーにやってるよ」

「そこで、こんにちはー、こんにちはーっていってても意味ないでしょ」

 

この時点で僕は沸点に到達し、ぶちぎれてしまった。

 

「いや、俺なりに明るくやってますけどね。じゃあもっと明るい場所で

挨拶すればいいってことですか?!」

 

文面だけみるとあまりきれているように思えなかっただろうが、

あきらかに怒りを込めて言葉を発してしまっていた。

 

 

 

いや、普段ならこの程度のことはどうってことない。

はい、といって笑顔であいさつに従事する。

 

だが、日ごろの不満がたまっていたことと、ジ〇ン先生が大して

挨拶が明るくなかったこと、

自分はパソコンに向かってるだけで、生徒の方に見向きもしないこと、

にやにやしながら何回もねちっこく繰り返してきたこと(伝え方が絶妙にうざい)、

中途の同期がストレスで3週間近く来ていないこと、

離職率70%(この情報を聞いてから悪いのおれじゃなくね?と思い始めた。)

上司が同僚と仲良くないことから、

 

おれのなかで

「もう、がまんの限界だー、やっちまえー」

っという心の声が聞こえ、

気づいたら言葉を発してしまっていた。

 

それはほんの一瞬の出来事だった。

 

Jは少し、フリーズしたのち、

「いまはおれなりにっていうのはおいとこう」

といって(これはたしかにごもっともである。)

教室長に

「いまさ、ディーン君が暗く挨拶してても意味ないんだよね。

いま、授業研修の期間中でただでさえ授業の準備しないといけないのに

(←だから教室空いてないんだからできねーだろ)」

と言い始めた。

 

かわいそうに、教室長は完全にとばっちりを受けた状態で

「はい、たしかにそうですね」

というしかなかった。

 

その対応でイライラはどんどん上がっていっ

イライラが最高潮まで達した僕は、

はあーっと大きくため息をつき、腕を組み、完全に不機嫌なポーズを取り始めてしまった。

それをみたJは「あ、こいつ、こわれる」と危機感を感じたのだろう。

 

その後、なぜか異様に生徒明るく接し始め、

普段声をかけていない生徒にも声をかけ始めた。

 

その変わりようがなぜだか妙に痛々しかった。

そして、外で作業してきます!といって

外にいってしまった。

 

まあ、自分としてはいつかきれようと思っていたが、完全にきれ方

ときれるタイミングを間違えてしまった。

 

まあ、でもキレも慣れだよね、

普段感情を吐き出すことになれていないといざというときに

吐き出せないし、体にもよくない。

 

そして、講師というのは確かに感情をコントロールしないといけないが、

それと同時に限界をしっておき、適切に喜怒哀楽を表現する必要もある。

 

じゃないと授業は無味乾燥で味がないものになってしまう。

 

笑顔で授業をやるためには、がまんばっかりじゃだめなのだ。

 

と自分の中で正当化し、明日から頑張ると決めた。

 

そして、その日Jはいつの間にか教室から立ち去っていた。

 

                                                                  to be continued~

転職を迷っている君へ

今日は転職を迷っている君に、自分の体験談から一つアドバイス(と言ってはおこがましいが、)をさせてほしい。

 

24の10月、僕は2度目の転職をした。

 

なかなか世知辛い世の中だと思ったけど、

まあ普通の人は世の中じゃなくてお前がずれているんだというだろう。

 

実際に転職の面接をした際は、履歴書を見ながらかなり難色を示した面接官がいた。

「う~ん、二度目ねえ」

「ぶっちゃけどこにいてもそんなに変わらないと思うんだよね、キミシダイだと思うんだよ。」

 

面接官のいうことは一理あると思った。

ぶっちゃけどの程度活躍できるかは同じ業界であればなおさらその人次第だ。

 

だが、業務の内容や待遇による日々のモチベーションの違いは会社によってまったく異なる。

 

1社目はパソコンを1日中使う仕事で、2社目は個人別の塾講師だった。

まず、これだけで業務内容が全くといっていいほど違う。

1社目は目を酷使したことで体調を崩し、やめざるをえなくなった。

それを「やめる必要はない」という結論に至るのはその人がたまたま境遇に恵まれていたか、または他人の事情を推測する推測力が欠如しているかである。

 

あなたは僕本人ではない。

わかろうとしたって本当にわかりきることなんてできやしないのだ。

ましてや何十年付き添った夫婦でさえも本当の心の内はわからないというのに。

 

ただ、面接官の言うことも全く理解できないということではなかった。

 

確かに2社目を1年でやめたということは「経歴上」軽率だった。(99%後悔していないが)

確かにコロナ下にあってもやりようではまだまだ努力して活躍できる余地は残されていたし、世間一般の評価からするとそうするべきだったんだろう。

 

ただ、それをするにはあまりにも給与が低すぎた。

あの時、僕は間違いなく自己評価を高く見積もっていて、

レベルの高い環境で、正しく努力すれば自分の教務力(授業力)は

必ず伸びると思っていた。そして、給与は僕の潜在能力に対して正当なものでは

ないと思っていた。

 

つまり、この環境自体は僕にとってめちゃくちゃレベル、待遇が低い環境で

ここで時間をつぶすのはもったいないと。

 

また、こうも考えていた。

会社というのは所詮独立前の修行場、資金集めの場であって

何のスキルも得られないのに会社のために働くというのは考えられない、と。

 

そして、そこに、残業代をごまかした塾長への不信感も相まって僕は2社目をやめる

ことになった。

もう、こんな人間がトップにいる会社にはついていけない。

ここはおれがいるべき会社ではないと。

 

傍から見れば、世間のことを何も知らない青二才が思い付きでやめたようにしか

見えないだろう。

現にそう思われても仕方がない。

僕がいくら正論を並べたところで、2年で2社やめたということはゆるぎない事実だし、

やめるならまず入る前になぜもっとしっかり調べなかった?ということになる。

 

やめるならなぜもっと前に調べなかったか?

 

調べられるなら徹底的に調べていた。

だが、インターネット上に書かれている情報というのは本当に一握りだ。

上に立つ人間が、それっぽい言葉をきれいに並べ、すごいクリーンで

社会に貢献してますよ!すごいでしょ!的な雰囲気を出しているのが

ホームページだというものだ。

口コミは小さい会社過ぎて全然なかった。

もしくは会社にとって都合の悪い口コミは消されていただろう。

 

トップに立つ人間が裏ではどんなごまかしをしているか、

社員に対しての教育は具体的にどうなっているのか、

退職した人の評価はどうなのか、

などのいわゆる裏情報は出てなかったのだ。

 

そして、僕は入ったあとにその事実に愕然とすることになる。

今となってはそれもいい思い出だが。

 

話がだいぶそれてしまったが、

 

「転職は悪い」と決めつける人の意見には安易に乗っからないほうがいい。

その人は君の事情をほとんど知らないし、ほんとに知っていたとしても

君ではないから君がどういう環境で育ってきて、どういう人とかかわる中で

どういう考え方を持つに至ったかまでは知らない。

 

「考え方」やいまの状況が転職を決定づける要因となる。

その行動や考え方は他人がむりやり変える権利はないのだ。

だから、本心からそれが正しい行動で、自分の行動が次につながる

という確信を持てていれば恐れるに足らない。

 

僕も3社目に転職して何度もやめたいと思っているし、

実際、入社1日目ですでに働くことが苦痛だったけど

1か月たってようやく慣れてきたし、

やっぱり転職してよかったと思えるようになった。

 

それはやはり、給与や待遇がいいことや自分が心の底から頑張れることが

業務内容だったからだ。

 

だから、君には今の環境に愚痴をはいているぐらいなら

もっといい環境を、もっといい未来を真剣に探してほしい。

 

 

君を助けることができるのはほかでもない、君自身だからだ。

 

Heaven helps those who helps themselves.

(天は自ら助くるものを助く。)

 

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働くことをやめた日

 

8月31日に前の会社を退職した。

あんなに切望していた退職も終わってしまうと切なく感じてしまう。

 

意外と担当していた生徒のことを何度も思い出してしまう。

 

僕は会社があることによって、会社で働くことによって質の高い暇のつぶし方ができていたんだなと改めて感じる。

 

そういえばだれかが、働くことはあなたに生きる意味を与えることだと言っていた。

今になって言いえて妙という気がするが、言う人や受け取る人によって皮肉にも聞こえてくるから不思議なものだ。

 

会社をやめるとやることがほとんどない。

そして、なにもかもに気力がわかなくなる。

まあやめて1日しかたっていないからあれだけど。

 

社会と接することがなければ質の高い生活や食事は必要ないと思ってしまうし、

ましては自分みたいな人間は不必要にそういった生活をするべきではないのだろう。

 

ただ、食欲、性欲、睡眠欲だけを満たすだけの生活をしている。

 

結婚をするつもりもないので、将来的な計画や見通しはしないし、する必要性も感じない。

後悔するだろうといわれても馬の耳に念仏、チンパンの耳に占いっていうレベルでそういう諭しは何の意味も持たない。

 

人間ってなんだろう、社会ってなんだろうということを考えたりもするが、

考えたところで自分の思考の枠内にとどまり、そこから外部へ足を踏み出すことも

しない。

 

大方目の前の現実から目を背けたいんだろう。

しかし、今の自分には背けているという現実でさえどうでもよく、ひたすらに若い貴重な時間を無為な思索、怠惰な生活にただひたすら費やす。

 

人生に意味付けをするなんていうことはどうでもいい。

僕はただ、僕と僕に関わる人の生活がもっと面白く、豊かで感動にあふれたもの

になっていればいいと思う。

 

本当にただそれだけでいいのだ。

逆にそれさえあればお金なんていうのは二の次なのだ。

僕の仕事観

僕にとっての仕事観

 

8月末で2社目の会社を1年で辞めることになる。

 

理由はいろいろとあるが、1番は自分がやりたいことがさらに

細分化されて、それを極められる環境に進みたいと考えたこと。

 

給与のことや、上司とそれで少しもめたことはサブ的な要因でしかない。

 

極めたい分野は大学受験の講師である。

僕自身、付属校出身で大学受験の勉強をしていなかったこともあり、

この分野の勉強を再度するのはとても楽しいと感じることや、

やはり中学生より、高校生のような純粋にまじめに勉強に取り組んでくれる

年齢の生徒の方が教えやすいと感じたし、学問の本質は中学分野より

高校分野にある。

 

 

多分、僕は子どもが好きなのでも、勉強がめちゃくちゃ好きなのでもない。

 

「難しい学問を教えられる自分」に酔いたいだけなのだ。

だから、仕事で教える科目以外の勉強は一切しない。

だが、仕事で教える科目の勉強はめちゃくちゃ掘り下げて行う。

どうやったら理解してくれるか、相手が何に興味を感じ、どの箇所をどう伝えれば

そこに注意喚起することができるのか。

 

点数をただ伸ばすだけの勉強というのは本当につまらない。

だから学生時代の勉強は本当につまらなかった。

 

社会人の今になっての自分にとっての勉強は考える材料だ。

別に人生にないと絶対に困るものではないが、あれば

人生に魅力が増す。

 

そして、一度その味をしてしまうとそれに固執することになってしまう。

 

今回退職を決断するきっかけになってしまったのもそんなところが要因になっている

のではないかと思う。

 

僕は勉強に対する知的好奇心、もっと幅広くいろいろな分野を教えるために

勉強したいという欲を抑えることができなかった。

 

ただ、同じ因数分解の説明をしたり、勉強をやりたくもない生徒にやる気を上げさせる

ことより、本当に勉強をやりたい生徒に学問の深さを見せることこそが

本当にやるべきことなのだとこの1年間で気づいてしまったのだ。

 

思うに、極論だが学習意欲のない生徒には勉強をやらせる必要がないと思う。

そんなことに貴重な時間やお金を割かせるのは無駄だと思う。

(いやいややっていて価値に気づく場合もあるが)

 

現に僕自身、自分が価値を置いてないことをやるのが大嫌いな人間で、

だけど自分が価値を置いていることができているときは本当に幸せで

今は本当に自分が心の底から納得できる選択をしたという感じだ。

 

そして、僕はこの感情はたとえ大金を積まれたとしても捨てずに

大事にとっておきたい感情だと思う。